わたしのみだし

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ぼーっとしているときの脳は

安いステーキを食べた。口で溶けて無くなったりしないから、食べ応えがあってよかった。ステーキ屋を出ると、遠くで太鼓の音がする。赤提灯の群れが線路のむこうに見える。なんかの祭りだ。近くに神社があったから、その何かだろう。何かというのはどうでもよかった。

小さな駅前公園はまるごと盆踊りのための劇場にかわっている。中心には太鼓の櫓が組まれている。取り巻くように舞台がある。浴衣を着たおばあさんたちが踊っている。浴衣には地区の名前が書かれてあるから、地元の選りすぐりなのだろう。人々は手すりに座ったり、僕みたいにぼーっと遠巻きに眺めている。舞台のいちばん近くには見よう見まねで踊る人の渦がある。

さすが手本になるおばあさんたちの踊りは年季が染み込んで、素人目にもこれぞ盆踊りと思わせるうまさがある。達人の演武である。一方の取り巻きは、まあ、ワンテンポ遅れたり、無駄な動きをしていたりと粗が目立つ。歳をとれば渋い踊りができるんかな、しばらく眺めて過ごした。

よく見ればおばあさんたちの踊りも、完全に揃っているわけではなかった。ある人は背筋を伸ばしてメリハリのある踊り、またある人は手先まで全てがなめらかに流れるような踊り、微妙な個性がある。もしかすると彼女たちの中ではそれは巧拙の差ということになるのかも知れないが、僕には個性、それぞれの独自路線と見てとれた。

すると取り巻きの人々の踊りも個性と言わない理由がなくなった。あの若い男の踊りは、自分の手に振り回されているかのようだが、あんなにエネルギーを余らせた踊りはおばあさんには踊れまい。車椅子に座って手だけゆらり泳がせているおばあちゃんも、抱いた子どもをゆっくり揺らすお父さんも、通りがかりに歩みがのろくなる大学生も、棒立ちで眺めている僕も、それぞれの踊りを踊っていると言わねばならなかった。それぞれの仕方で、太鼓と赤提灯に魅了されていた。

じきにアンパンマン音頭の時間になり、おばあさんに代わって子どもたちが舞台に上がった。アンパンマン音頭の振り付けなど誰も知らず、子どもたちは赤い太鼓の音を見上げてぎこちなく手を叩くだけだった。