わたしのみだし

見出しだけでも読んでください

白い!太い!真っすぐ!

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最近AbemaTVで日村がゆくという番組のアーカイブをダラ〜っと観ている。5月だか6月だかの第3回高校生フォークソング選手権を観て、崎山蒼志すげ〜ってなった。そのころ一度バズってて僕もちらっと聴いて、へ〜すげ〜な〜と思ってたけど、また思った。それからYouTubeで別の曲を聴いて、ぷぁ〜すげ〜と思った。また思った。

 

↓すげーやつ

 

崎山蒼志 KIDS'A キッズエー 弾き語り 『heaven ヘブン』 オリジナル in クリエート浜松ロビーライブ - YouTube

heaven

 

誰もがある人の言葉の中

頭に咲いた少しの希望と

ヘブンとかコミュニケーション

など 優しさを含めてみたりして

 

誰もがある人の言葉の中

頭に咲いた少しの希望を

ヘブンとかイニシエーション

など 優しさを含めてみたりして

 

High Touch して割れる毎日で

太陽を体内の内臓まで燃やして

ジャンプしてんだ ずっと嫌いなものから

探してる魔法など

すべてからdappiしたい12月の夜

 

黄金の撃鉄に触れて

一発でも撃ち込んでみたいな

この世界の中で in the end

navy blue

 

High Touch して割れる毎日で

太陽を体内の内臓まで燃やして

ジャンプしてんだ ずっと嫌いなものから

探してる魔法など

すべてからdappiしたい

 

美しさが動脈の走り方に

敏感に反応して

今朝 体の中踊る

月の下では無重力な嘘

 

黒い色をした水道は

哀しさを浴びる

シャワーのようで

 

黒い色をした水道は

哀しさを浴びる

シャワーのようで

 

High Dive して沈む毎日で

太陽を体内の内蔵まで燃やして

天に届かないんだ 嫌いなものも

好きなように この街から

逃げてしまえばいい

 

High Touch して割れる毎日で

太陽を体内の内蔵まで燃やして

ジャンプしてんだ ずっと嫌いなものから

探してる魔法など

すべてからdappiしたい12月の夜

 

灰になって世界を循環して

悟って星になる

そんなあいまいなイニシエーション

いらない

 

番組ゲストのカクバリズムの二人の大ファンだったっぽいから、同じカクバリズムキセルの曲も聴いてそう。歌詞から歌い方まで雰囲気がすげ〜似てる。

 

僕の歌詞の解釈は次の通りです。

 

誰も彼もヘブンとかコミュニケーションとかイニシエーションとかいう言葉に希望や優しさを見出している。天国に行けば幸せになるとか、人と会話をすれば楽しくなるとか、大人になればもっと自由になるとか、それらが救いであるかのように口にする。

それが救いであるのはなぜか。今が苦しいからだ。

体の内側がその熱で燃えてしまうほどに、良い感情も嫌な感情も巨大なエネルギーで湧き出してくる。逃げ出したくもなる、魔法で解決したくもなる、けれど満ち溢れる力になることもあるじゃないか。

内なる熱を失って水道のように冷たく同じ道を進むとき、人々も自分も哀しみに満ちている。

もし救いの言葉たちが、この熱から逃げ出してあるいは諦めて、燃え尽きて灰になって不感症の悟りの境地を目指すことを促しているのなら、自分は耳を貸さない。どうすればいいのかわからないけど、きっとこの内なる熱を外に打ち出して、殻を破って大きくなってみせる。

 

まあ歌詞の解釈は人それぞれだと思う(と言わせるレベルなのがすげ〜が)ので各々やってくれればいいんですが…。

 

僕が一番すごいと思うのは言葉の使い方だ。

詩ってまあ色々あると思うんですけど(それはそう)、大抵はなんか心を揺さぶる感じがする。複雑なクロスワードパズルを解いた時の快感に似ている。

 

僕は、良い詩は自分のもつ言葉のネットワーク(パロール)の再構築を迫ると考える。全く離れた場所にあった言葉と言葉が、いまや分けては考えることができないほど接近する。

言葉と言葉が知らない形でつながる瞬間は、子どもの小さな言い間違いにどきりとさせられる瞬間に似ている。いまググったら「何者だ!」を「誰者だ!」と言うとか、「『みつばち』って『うえきばち』の友達?」っていうのが出てきた。かわい〜!こういう時に、詩が何にでもなれることを実感する。

 

言葉には、概念を広げる使い方と狭める使い方がある。

ある時には、肉じゃがとか、おばあちゃんが作った夏野菜たっぷりカレーを食べるときの満ち足りた気分になる。またある時には、薄味のウィダーインゼリーを飲んでいるような物足りない気分になる。なぜか。

言葉は、それ単体で沢山のイメージをはらんでいる。太陽は、熱くて、赤くて、強くて、大きくて、怖くて、暖かくて、眩しい。わざわざ言及しなくたって、僕たちは勝手にそんなような太陽をイメージする。このイメージは、無限に広がっていく。一方、言葉がある使われ方をすると、イメージを狭め、指定さえする。

詩が心に響くのは、この勝手にまとわりつく言葉のイメージが、書き手によって巧みに誘導され、増幅され、あるいは消音され、結果として聴き手が思いもよらなかった概念を聴き手自身に発見させるからだ。下手な料理人ではこうはいかない。素材の味を生かせず、同じ味付けで誤魔化す。トマトは砂糖を振らなくても甘いのに。

 

では具体的に概念を広げる言葉の使い方とは何かというと、まあよく分からない。そもそも概念を広げることの効用は、広がった概念を用いて新たな接続を受け手自身が発見することにあるので、書き手自身がどうこうできるものではないような気がする。が、接続を発見しやすくする方法は間違いなくある。種自身が根を伸ばせるよう、畑をやわらかく耕すように。

 

似たイメージの言葉を連続する。

言葉と言葉がある意味において協力し、繋がり、蓄えられ、詩が編み物のように強度を持ち、膨らむ。言葉のネットワークにおいてスモールワールド現象が起きる。一見関係のない言葉と言葉の距離が小さくなる。

High Touchと太陽とジャンプ、太陽と燃やすと黄金、割れると体内(体を割らなければ見られない)、太陽と月と星、動脈と循環、水道と沈む。

 

反対のイメージと対比する。

対比は二項対立ではない。二項対立は、二項のどちらにも関わりを持たない立場からの評価だ。人間はあらゆる対立二項のどちらかに馴染んでいるのであり、好んでいるのであり、あるいは単に語順や声色その他に引っ張られている。現実の要素が理論的な対立を崩す。あらゆる二項において同等の対立などありえず、必ずどちらかにイメージの重心が寄る。極端に言えば、明るいイメージを好む人は、昼と夜という二項を「昼と昼でないもの」とみなす。どちらに重心があるかはあまり重要ではないと考えるが、便宜上これらを順に主項と補項と呼ぶならば、主項に対して補項が提示されることは、「主項ではないもの」すなわち「無数にある何か」への意識を顕在化させる作用を持つ。「〇〇ではないもの」なる無限のイメージを主項のすぐ隣に置き、思わぬイメージの連結を促す。ヒヤリとさせる。多様になる。

太陽と月、好きと嫌い、希望と哀しさ、美しい動脈(鮮やか・内にある)と黒い色をした水道(濁った・外にある)。

 

助詞のいたずらを。

助詞は、そのまわりの言葉を関係づける。「は」は、主部と術部のなんらかの関係を暗示している。「助詞のいたずらを。」と言って文を終えれば、助詞のその先の術部を想像する。補う。接続を試みる。

助詞によって性質は異なる。重みを変えることも、概念を広げるものも、狭めるものもある。

歌詞からの引用。

誰もがある人の言葉の中

頭に咲いた少しの希望と

 

誰もがある人の言葉の中

頭に咲いた少しの希望を

「希望と」と「希望を」は全く違う。前者は希望と並ぶ何かへの想像を掻き立て、後者は希望ではないものへのつかの間の空想旅行を経て希望そのものを再び照らし出す。土が耕されている。もはやこの希望は初めの「希望と」とは異なる。

形容詞もこの向きがある。「白い!太い!真っすぐ!」は、くりかえす形容詞によって、被修飾語への意識を強める。

 

結局。

伝えたい内容に向けて聴き手のイメージを狭めていく歌詞ではなく、聴き手自身に生まれてから今まで育んできた言葉のイメージを整理させながら伝えたい内容へと誘導する歌詞。これがマジですごい。ギターの技術もやばいし歌い方も自分の方法を確立していてやばい。それでいてこの曲を書いたのは中学生の時。はぁ〜バケモンだ。

 

稚内に、泊まると夜9時に集合かけられて宿泊者全員で松山千春の「大空と大地の中で」を歌わされる宿がある。そのあと酒が振舞われて、寝たい人から二階に上がって寝る。トイレが広い。二泊した。

強烈な経験だったから、寝るぞってときにたまに思い出す。寝ることと「大空と大地の中で」が切り離せない。最初のワンフレーズだけ歌って寝る。この前その状態になったので、内モンゴル人にボイスメッセージを送って寝た。