わたしのみだし

見出しだけでも読んでください

縦書きでしか生きていけない

メルカリで買って届いた本を今日早速サンマルクカフェに座って読んだ。丸山圭三郎の『文化のフェティシズム』。ちょっと(かなり)古い本だけど、ソシュール研究の第一人者である丸山の思想の到達点などと紹介されていて、読まずにはいられなかった。

文化のフェティシズム

文化のフェティシズム

ソシュールは自身の思想を論文などには残していない。ソシュールが大学で行った講義で受講生が取ったメモは残っていて、思想はそこから読み解く他ない。というわけでソシュールを原文で読むというのはかなり難しい。そんな事情がなくても僕は縦書きの日本語でしか読めないけれど。

丸山圭三郎は世界に先駆けて講義メモを組み合わせて思想をまとめあげるという大仕事をした研究者だ。この人の文章は、出典や注を充実させる丁寧な研究者の文章でありながら、読み手をワクワクさせる作家のそれでもある。言葉の研究者なだけある。そういうわけですっかり気に入って、ソシュールの思想そのものはもちろんのこと、彼の言葉に飛び込んで楽しむためにこれまで『言葉とは何か』『ソシュールを読む』『ソシュールの思想』と読んできた。内容も文章も好きじゃないとなかなかいくつも読む気にはならない。大学時代に出会った中では他に河合隼雄とエーリッヒ・フロムくらいのものだ。三大好きな文章家の一人というわけ。

実際に彼の著書を読んだのは大学3年のころだった。それが今になって彼の文章への熱が再燃したのは、仕事で(教える/学ぶ)を考える上で、ソシュールの理解を深めることが、ひとつのブレイクスルーにつながるような直観があったからだ。そこでまずは『言葉とは何か』を読み返した(読み返そうと思ったら家で見つからなかったので買い直して読んだ)。短い新書だからあっという間に読み終えて、やはり言葉について考えねばならないという気持をつよめた。

言葉とは何か (ちくま学芸文庫)

言葉とは何か (ちくま学芸文庫)

とにかく読みやすい

高ぶっているところで読んだあとがきに丸山の弟子が『文化のフェティシズム』について、

丸山によるソシュール解釈の最高到達点であると同時に、丸山理論の積極的な展開の始まりとなった書物。

などと書いていたものだから、すぐに検索して買ってしまった。2日前のことである。今のところ数十ページ読んでみて、買ってよかったと言う他ない。

直観といっても、その予兆はいくらでもあった。仕事でプログラミングを教える。とかく初学者への解説は根気が要って、相手の理解度を図りながら、言葉づかいだの図の書き方だのどうすればわかってもらえるのか工夫しようと考えだせば底がない。そんな中で得た直観のひとつは『教える上では、「なぜ分からないのか?」より「なぜ分かるようになったのか?」を問うほうがよい』ということだ。これは仕事仲間と話しているうちに不意に自分の口をついて出た言葉でもある。自分の言葉に、なるほどそのとおりだと思った。このように問いを変えると、質問の相手が他人ではなく自分自身になる(そういえば誰かが汝自身を知れって言ってたな)。これでぐっと身近になる。どこから手を付けていいかわからない、何が問いかさえよくわからない難題に手がかりを見つけた。

自分自身に問うとは、ひとつには自分の過去を振り返ることである。「自分はいかにして分かってきたか?」しかしこれは過去に意識したことがなければ答えを出すのが難しい問いである。

あるいは、自分の現在を分析することである。「自分はいかにして分かりつつあるか?」「自分はいかにして分かろうとしているか?」今すぐ答えが出るわけではないが、これを継続して問うことは非常に実りあることのように思う。いまのところ自分自身の蓄えがないので、現在の自分を見つめることは分析の視点の一つというには程遠く、せいぜい問いへの姿勢でしかない。

もうひとつは、人間の本性を暴くことである。「人はいかにして分かるのか?」この問いに答えるのは、僕の場合発達心理学だった。大学では卒業に必要な学科の単位はそっちのけで他の学科の授業をとっていて、そのひとつに発達心理学の講義があった。赤ちゃんがいかに発達するかを研究する学問である。これを思い出し、体系を学ぶということ、外界の認識、人間が言葉を学ぶ過程とプログラムの実行の類似性とか(これについては改めて考えてみたい)、おいしいヒントが転がっていることに気づいた。あの学期で一番興味を持って聴いた講義だったし(建築学科の講義はひとつも面白くなかった)、いまもこうして学びを得ている。みんなも騙されたと思って受講してみよう。

ことばの発達の謎を解く (ちくまプリマー新書)

ことばの発達の謎を解く (ちくまプリマー新書)

わかりやすくておすすめ

ここまでの経緯をつらつらと書いてしまったが、僕自身これが本当に自分に起きたこととは思えない。直観にかかわる因果を、直観に至るまでの・至ったあとの出来事を時系列に乗せて述べるのは難しい。「なんか違う」とは思いつつも、一旦書き始めてしまったから書いただけ。すべてが関係しあっている。思いつくより先にわかっていたような気もするし、わかっているようでわかっていない気もする。いつからそう思ったのか、なぜそう思ったのかもわからない。ソシュール自体もともと好きで、発達心理学の第一回講義のときにこれはソシュールだ!と思って興味が湧いた、しかしなぜ好きだったのかというとよくわからない。講義や本と一緒に知らず知らず飲み込んだ種が腹の中でようやく芽吹いて、僕が「分かるということ」について考えずにはいられないよう内側からくすぐっているかのようだ。僕は何かをわかろうとして、つまり内なる目的のために講義を受けていたのでも本を読んでいたのでもない。しかし事実としていま僕は自分の口に手を突っ込んで、数年もののその実を取り出そうとしている。こんなことになるとはと思いつつ。確かなのは、そんなこんな生きているうちに、自分の「分かる」の大本にソシュール的思想があると思うようになったという感覚だけである。

今は、教えるにしろ学ぶにしろ、理解の仕組みを知ることでより効果的に行えるに違いないと考えている。さらに「あらゆる学びの対象は体系という性質を持つ(言葉が体系である以上、そこから生まれる一切は体系である)」ことからスタートして体系の本性を探っていけば、なにかすぐそこにヒントが得られるような気がしている。そのために、しばらくはソシュールと丸山の冒険の軌跡をたどってみたい。

ソシュールの言う《体系》の概念は、それまで使われていた体系と根本的に異なります。従来の体系というのは、既成の事物がどう配置されどう関係づけられているかという表なのですが、ソシュールの場合には、もともと単位 unité という客観的実体は存在しないというまことに不思議な体系を考えています。その体系の中では、個々の単位の大きさとか価値 valeur はネガティブにしか定義されない、と言うことができるでしょう。(中略)存在するものは隣接する他の諸項と、全体との、二つの関係だけから生れる大きさでしかありません。(『言葉とは何か』p132-133)

サンマルクカフェにて、精緻な分析と密度の高い文章にすっかり引き込まれてしまった。

読みながらザッとまとめた文化のフェティシズムの序章のメモを貼っておく。彼がソシュールに出会うまでに感じていた現実不信感などは非常に共感することが多く、ソシュールに触れたときの静かな衝撃はひしひしと伝わってくる。これを読んだ人にも輝くばかりの原文を読んで、一緒に丸山青年の知的興奮にあてられてほしいけど…。

胡蝶の夢 ―序に代えて―

丸山は小学生のころより大学生に至るまで、様々な読書体験をし、その都度次のような感覚を抱いていたという。

「月と雲」から太宰治を経てJ・グリーンへとのめりこむ過程は、一貫して「何故」を問うても答えのない現実不信、現実気迫感であった。

その後丸山はひょんなことからソシュールに出会い、衝撃を受ける。

(前略)ソシュールの手稿9に見出した次の文はまことに衝撃的であった。

 事物そのものに先立って事物と事物のあいだの関係が存在し、その関係がこれら事物を決定する役割を果す。(……)いかなる事物も、いかなる対象も、一瞬たりとも即時的には与えられていない。

これを読んだ私には、従来の観念論、実在論がともに疑ってみようともしなかった<ロゴスの現前>が、ソシュールによって根柢から覆えされたと思えた。文化現象の一切は表象によって二次的に生み出された共同幻想の世界で、その表象すらももともとは存在しなかった関係の網の目に過ぎない、という考え方は、ヘレニズム、ヘブライズムの正嫡である西洋近代思想をその根源から揺さぶる。絶対的神も理性も世界の理法もア・プリオリではない。この視点に立ってはじめて、従来は非合理ということで学問の対象とは認められなかった無意識とか夢とか狂気、観念の名のもとに隠されていた身体性、あるいは身体性のそこにある欲動の世界が照射されるのではあるまいか。

ここに引用されているソシュールの言は彼の思想の中心であり、今後の議論を理解する上で非常に重要な概念である。

そして何よりもまず、この思想家の考え方は<アニマル・シンボリクム animal symbolicum>としての人間文化の病状告発にとどまらず、その原因の診断に、つまりは「何故」の問題に立ち入ることを可能にしてくれるように思われたのである。

患者自身による病気の告発、医師による診断、治療という一般的な流れが、我々を覆う様々な<文化の病い>にも重なることを言い、その上で当時の思想界を

一方にやたらと病状告発に精を出す論者がいるとすれば、他方には請求に処方箋を求める読者がいるように思われる

と断ずる。 丸山が飲み込んだソシュールの思想は、思想界の無益なすれ違いからみなの目を覚まさせる強力な武器になった。ソシュールの見方でもって現象を理解しようという過程自体が、様々の問題の解決に至る道なのではないかと信じて。

本書は、<処方箋なき診断>が果たして<治療>の一歩となり得るかどうかを探る一つの試みにほかならない。

転がしておくのが最も安全?

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パッと見「触らぬ神に祟りなし」っぽいけど全然違う気もする。しかし何が違うのか明確に説明できない。それはそうと、考えなしに立ち上がらせてまた転ぶ危険を考えたら、たしかに転がしておくのが良い気がする。何を?

 

いやはや、読解力のキワキワを攻めてくる見出しだ。

 

 

Rails Tutorialという、Ruby on Railsの無料教材でめちゃくちゃ有名なやつがある。これの勉強会を週1でやることになった。僕の提案で。

 

railstutorial.jp

 

気づけばすっかり「プログラミングができる人」扱いになっていて、なんだか不思議な気分だ。実際それなりに勉強してきたから、それなりのことはできるようになった。一年前とは見える景色がずいぶん変わってしまった。

 

はて、なぜ僕は勉強してるんだろう?

建築学科にいた頃は意地でも建築の勉強なんかしなかったのに…。

 

 

多分、突然「教える」立場になったのがデカい。

僕も知らないことがたくさんあるのに、遠慮なしに質問が飛んでくる環境。この環境で鍛えられた感じがある。質問に答えられるよう、勉強しなければならなかった。言外の圧力は強い。

建築学科の卒業制作では、四年生が後輩をヘルパーとして雇い、自分の作品作りを手伝わせる。ここでは、おそらく四年生自身に最も学びの効果がある。僕はヘルパーを雇わなかったのであくまで推測ですが…。

 

話はもどって…。

 

教える立場になって得られたのは単にプログラミングの知識だけではなかった。

例えば、たくさんの「わからない」に触れたことで、「なにが理解を妨げるのか?」に敏感になり、教え方をデザインできるようになってきた(気がする)。

せっかく得たノウハウ。ちょっとずつでも言語化した方がいいなと思って、短くふんわり「教えること」について書いてみる。

 

ここで、『エンジニアの知的生産術』より一文だけ引用。

 

一人の人だけから学んでいると、その人の部分集合になります。

 

だからよくないよ、みたいな内容(雑だな〜)。詳しくは買って読みましょう。

 

www.amazon.co.jp

プログラマではなくエンジニア。「作る」人全員に激おすすめの本)

 

ふむ、では僕だけとの「教えるー教わる」関係はよろしくない。

じゃあ僕はどうプログラミングを「教える」か?

 

ここで浮かぶのは、プログラミングを学ぶ上では、「文章で概念を掴む学び方と、コードを読む学び方があり、どちらも必要である」という直観だ。

概念の説明だけ読んでも実際にコードを書けるようにはならない。逆に、元になっている概念がわかっていないのにコードの一部を読んでも、何がしたいのか全くわからない。コードは概念をもとに組み立てられるものだが、その概念は実際にコードの形で利用可能でなければ意味を持たない。

コードを行動と読み替えても通じる(コードと行動は似ているので)。すると、概念は何と読み替えられるか?僕は言葉だと思う。概念とコードの関係は、この意味で、言うことと実行することの関係に似ている。

 

僕は、たとえば、親が子にいくら勉強しろと言っても子は自発的に勉強するようにはならないと思っている。

自分が勉強しないのに、それを知る人に「勉強しろ」なんて言っても響かない。人は言葉のみによって学ぶのではないから。子は勉強する人を見て勉強を学ぶ。かといって、勉強ばかりしていても自分の頭が太るだけ。「勉強すること」を人に伝えるには、やはり言葉は必要不可欠だ。

 

人は、言に学び、行動に学ぶ。だから、教えることとは、有言実行することだ。

 

言葉と行動が時間的に直列ではなく並列の関係にあるという点で、有言実行の本来の意味とは異なっているけれど、僕にはこの表現がしっくりくる。 

僕は、ただ自分の言葉と行動を他人に学ばれるものと認識し、高めていけばよい。

 

僕が教えるときは、相手の横に座って自分でコードを書く様子を見せながら説明するようにしている。すぐにはわからないことでも、隣で調べる様子を見せる。そうして「プログラミングを(学ぶ/する)とはこういうことなんだ」と学んでもらう。

 

経験に依拠するガバガバな論理だし、偉そうに書いておきながら結局何度も先人に聞いたような結論ではあるけれど、ようやく自分の言葉と行動で理解するに至った。

 

 

自分が勉強している姿を見せているから「勉強っていいよね」と言える。子に「勉強っていい」と思わせられる。

僕が子にできることはそれだけ。

行動の伴わないことは言わず、子は転ぶ方に転がしてやろう。

 

 

そういえば、建築家がどうやって建築を作り上げるのか、僕は全然知らないな。

建築について、いよいよ何も学んでない。

結果にこだわってみよう!

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「はいじゃあこれ読んでるみんな、せーの!で結果にこだわってみよう!」

 

どうしても結果にこだわれない人に「結果にこだわってみよう!」とやる気を押し売る人は、何かを失っている気がする。やる気の押し売り、若気の至り。学科同期だったR川くんのことでは決してありませんが…。

 

 

崎山蒼志(15か16歳)の曲もそうだし、この前ボケ〜っとして買った詩集(21歳くらいの)もそうだけど、年下の作品で「味わい深け〜」と思うことが多い。単に年取って年下の母数が増えてきたから、というだけではなさそう。

 

昔行った街の鮮やかな写真を見ているような気分だ。「こんなとこあったな」あるいは「こんなとこあったっけ?」。歳取るのも結構いいものだなと思う。僕に何かが積もれば積もるほど、彼らの作品は彩度を増すのだろう。

 

僕が年齢とともに(年齢と引き換えに)得ているものは何?

 

それを得ること、を目的にしたことはなかった。いわば影のように、僕が前に進むとき勝手について回るものだから。たまに振り向いた時にだけ意味を持つものだから。

 

「飲み会で話せるように面白いエピソードをためておくようにしている」という人がいる。しかしそれはスキルのように役立つよう、加工した過去だ。たぶん役に立たない過去もたくさんあって、それも僕は得ている。

 

 

仕事柄、エネルギッシュな大学生と触れ合う機会が多く、いい刺激になる。いつまでも若々しくありて〜し、一方でいい感じに歳を重ねてナイスな大人になりて〜…。

 

今日はここまで。

あっ!あけましておめでとうございます!

トロントロン商店街を疾走

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トロントロンはただの地名らしい。キャッチーすぎる。

川南町のwikiより↓

 

 

中心地域は通称「トロントロン」と呼ばれている。この名の由来として次の2つの説が唱えられている。

西南戦争の際に敗走する西郷隆盛の一行が、ぬかるんだ地面を「トロントロンとしている」と言ったとする説
湧き水があり、水の音が「タランタラン(トロントロン)」と聞こえたとする説

 

 

いずれにせよ!

いずれにせよだよ!

 

 

町の中心部を平田川が流れ、町の北端部を名貫川が流れている。 町名の川南はこの名貫川の南に因む。

 

 

まあ川の南だから川南町!って名付ける人たちだもんな…。

 

 

夢の話しま〜す。

「他人の夢の話クソどうでもいい」とか言う人は帰れ!踵を返せ!そんな奴がブログを読むな!

 

乃木坂のレッスン終わりに齋藤飛鳥が寂しそうな顔をしていたので、白石麻衣を含む数人のメンバーと共に帰ることになった。白石麻衣は小躍りしながら歩いている。僕は彼女たちとまだそれほど仲良くないので、軽い会話だけしながら歩く。ここはよく来る商店街らしい。ものが無秩序に無数に並べられた道を通り過ぎていく。どれもこれも白石麻衣の好きなものらしく、嬉しそうに「これはね…」と解説を加える。

次第に僕たち2人は他のメンバーに取り残されて、姿が見えなくなって…でも白石麻衣がそれを気にしている様子はない。笑いながら、道の真ん中に置いてあるお気に入りの食べ物や、脇に並ぶお店のエピソードを語ってくれる。あたりは暗くなっている。冬だ。もう木々に囲まれた田舎の小道にロウソクのような揺れて頼りのない灯りがあるだけ。

その調子でかなり歩いた。時々スキップもした。もうずいぶん人を見ていない。目に入らないだけか。いや見回しても誰もいない。隣にはずっと白石麻衣が居る。あらためて白石麻衣を見つめる。ここまでたくさん話したけど、白石麻衣白石麻衣だ。彼女の好きなものは知ったけど、まだ彼女にとって一番大事なことを聞いてないような、目の前にいるのに画面の向こうにいるような、薄くて厚い隔たりを感じる。

立体駐車場がある。これも白石麻衣のお気に入りのようだ。なんだってこんなものを。本来車で入るべき場所に、僕は乗り込んだ。白石麻衣が見送る。装置が作動する。急激な上昇と揺れ、驚いて飛び降り、急いで白石麻衣のところに戻った。彼女はいなかった。

 

代わりに、十数人の青服がいた。小型のトラックから荷物を降ろしたり、たむろして息をついていたり。彼らの一人がおつかれさまと声をかけてくる。荷物をまとめてバイト代を受け取ってねと導かれる。よく見ると、彼らは僕が以前バイトしていた運送会社のトラックドライバーたちだった。そのうちの一人は一度会った覚えがあり、向こうもああと気づいて、やはり荷物とバイト代についての指示をくれる。

なにかまずいことをしているという焦りはあったが、なかなか状況が飲み込めなかった。必死にあたりを見回して、しばらくののち察する。彼らは『白石麻衣の好きなもの展』の準備をしていた。

本来立ち入り禁止の場所に、僕はズカズカと入ってしまっていた。焦りが強まる。顔も見られてしまった。このバイト代も僕ではなく別の人がもらうはずだ。まだこの場に現れていないから発覚していないだけだろう。遅かれ早かれ、僕がこの数時間に起こした不法侵入等々の罪が明るみになる。何か手はないか?

僕は顔見知りのドライバーさんに、お腹が痛い、ここから出たところにトイレはないかと尋ねた。出口からすぐ右のビルの一階で借りることにする。親切なことに、いやバイトに逃げられないように?、ドライバーさんもついてきてくれる。まずいな。

しわくちゃな老夫婦の不動産屋だった。トイレを借りようとするも、キツい顔の婆さんに「うち、トイレはお貸ししてないんで」と拒まれる。爺さんが貸してあげなよと言い二人は揉めだしたが、僕はすぐにごめんなさい結構ですと断り、ドライバーさんにも近くにトイレがないか探してきますと言い残し、有無を言わさずその場を去った。

街は京都のような雰囲気だ。往来の賑わいはありつつ、突然静かな場所もある。右に左にやたらめったら進んでいくと、大きな庭園のような池と竹林の中に出た。こんなところ、どこをどう見てもトイレは無さそうだが、お腹が痛いというのはつまらない嘘だから、なにも問題はない。それどころか出るものも出ない気分だ、どこへ行こう?

もうどうしようもないなと振り返る。バイト代は受け取らなかったから、まだ罪は軽いだろう。罪を犯すつもりもなかったのだが。あのドライバーさんも、僕が誰だったか黙っていてくれるかもしれない。でもこんなにモヤモヤするなら、次は逃げなんかせず正直に言おうと思った。

 

 

以上、夢うつつでトロンとしたときにだけ現れる、トロントロン商店街の話でした。おしまい。

スカートを上げて露出、逮捕

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知識の露出狂なので、全く需要がないのに特に良かった技術書の紹介とレビューをします。この半年で20冊近く読んでいる。えらい。とりあえずRubyとWeb関係の一部。続きはまたいつか。

 

 

Ruby編】

 

プロを目指す人のためのRuby入門 言語仕様からテスト駆動開発デバッグ技法まで (Software Design plusシリーズ)

 

 

とてもおすすめ。全くのゼロからプログラミング始めます!って人向けの本ではない。しかしそんな本は他にいくらでもあり、むしろRuby初心者が中級者になるために必要な本があまり無かったので、やや踏み込んだ内容を扱ったこの本はとても価値がある。これを読んだら次は以下の3冊を読むといい。

 

 

オブジェクト指向設計実践ガイド ~Rubyでわかる 進化しつづける柔軟なアプリケーションの育て方

 

爆おすすめ。この本を読むと、「メソッドってメッセージだわ…」という気持ちになる。ひとつのアプリケーションを拡張したりリファクタリングしたりで話が進んでいく。かなり実用的なアドバイスにあふれているが、はじめにもあるようにあくまで「著者のやり方」なので、これを読んで自分ならどう設計するかを考えることが大事。というか勝手に考えさせられる。すごい本。

 

メタプログラミングRuby 第2版

 

メタプログラミングRuby 第2版

メタプログラミングRuby 第2版

 

 

激・おすすめ大明神。いまこの瞬間からあなたはこれを読むしかない。他のこと全部忘れちゃってさ…。超一流のRubistたちが使うRubyの真の力はこの本に全て詰まっている。厚みは大したことないくせに非常に歯ごたえがあるので時間をかけてじっくり読んでほしい。動的にメソッドを追加したり、無いメソッドを呼び出すことができるようになる。しかしそのようなメタプログラミングな部分はこの本の一部でしかなく、Rubyのメソッド呼び出しやコアプログラムに対する理解も深まる(とてもシンプルに見えてくる)し、後半はRailsのコードを読み解くというこれ以上なくありがたい内容になっている。僕はこの本を読んで、ソースコードを読むことに恐れがなくなった。人生が変わります。ぜひ。

 

Rubyによるデザインパターン

 

Rubyによるデザインパターン

Rubyによるデザインパターン

 

 

とてもよい。デザインパターンを学ぶことのメリットは言わずもがなだが、この本の素晴らしさはRubyという動的型付け言語で、柔軟な実装方法を示してくれることだ。

またデザインパターンが淡々と紹介されるのではなく、「このパターンにはこういうメリットデメリットがあるからこういうときはこのパターンを使うのがいい」みたいなこと言ってすぐ次にそのパターンの説明をしてくれる。パターン同士の関係がわかってよい。絶版だが図書館で借りて読むべし。

 

 

【Web・一般】

 

プロになるためのWeb技術入門」-――なぜ、あなたはWebシステムを開発できないのか

 

「プロになるためのWeb技術入門」 ――なぜ、あなたはWebシステムを開発できないのか

「プロになるためのWeb技術入門」 ――なぜ、あなたはWebシステムを開発できないのか

 

 

ウェブサーバーの仕組みがざっくりわかる。ウェブサーバーの発展の歴史を追いながら説明するのはGood。ただ、後半はJavaPHPの具体例が豊富だったが、僕がそれらの経験がなかったので読むのにやや苦労した。しかしプログラム部分は流し読みでも全体的な話は分かるようになっている。

 

 

コーディングを支える技術-成り立ちから学ぶプログラミング作法

 

コーディングを支える技術 ~成り立ちから学ぶプログラミング作法 (WEB+DB PRESS plus)

コーディングを支える技術 ~成り立ちから学ぶプログラミング作法 (WEB+DB PRESS plus)

 

 

プログラミングの発展の歴史や言語間の比較を通して、さまざまな概念についてより理解が深まったと思う。教養書的な立ち位置で、これを読んだからといって明らかに昨日までのコードが変化する訳ではないが、例えば新しい言語を学んだり他の本を読むときに内容を理解しやすくはなるはず。

 

リーダブルコード ―より良いコードを書くためのシンプルで実践的なテクニック (Theory in practice)

 

リーダブルコード ―より良いコードを書くためのシンプルで実践的なテクニック (Theory in practice)

リーダブルコード ―より良いコードを書くためのシンプルで実践的なテクニック (Theory in practice)

 

 

言わずと知れた名著。この本の内容は錆びることがない。ユーモアたっぷりで読みやすい。全員読め!というかこの本読んでない人と仕事したくない!

白い!太い!真っすぐ!

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最近AbemaTVで日村がゆくという番組のアーカイブをダラ〜っと観ている。5月だか6月だかの第3回高校生フォークソング選手権を観て、崎山蒼志すげ〜ってなった。そのころ一度バズってて僕もちらっと聴いて、へ〜すげ〜な〜と思ってたけど、また思った。それからYouTubeで別の曲を聴いて、ぷぁ〜すげ〜と思った。また思った。

 

↓すげーやつ

 

崎山蒼志 KIDS'A キッズエー 弾き語り 『heaven ヘブン』 オリジナル in クリエート浜松ロビーライブ - YouTube

heaven

 

誰もがある人の言葉の中

頭に咲いた少しの希望と

ヘブンとかコミュニケーション

など 優しさを含めてみたりして

 

誰もがある人の言葉の中

頭に咲いた少しの希望を

ヘブンとかイニシエーション

など 優しさを含めてみたりして

 

High Touch して割れる毎日で

太陽を体内の内臓まで燃やして

ジャンプしてんだ ずっと嫌いなものから

探してる魔法など

すべてからdappiしたい12月の夜

 

黄金の撃鉄に触れて

一発でも撃ち込んでみたいな

この世界の中で in the end

navy blue

 

High Touch して割れる毎日で

太陽を体内の内臓まで燃やして

ジャンプしてんだ ずっと嫌いなものから

探してる魔法など

すべてからdappiしたい

 

美しさが動脈の走り方に

敏感に反応して

今朝 体の中踊る

月の下では無重力な嘘

 

黒い色をした水道は

哀しさを浴びる

シャワーのようで

 

黒い色をした水道は

哀しさを浴びる

シャワーのようで

 

High Dive して沈む毎日で

太陽を体内の内蔵まで燃やして

天に届かないんだ 嫌いなものも

好きなように この街から

逃げてしまえばいい

 

High Touch して割れる毎日で

太陽を体内の内蔵まで燃やして

ジャンプしてんだ ずっと嫌いなものから

探してる魔法など

すべてからdappiしたい12月の夜

 

灰になって世界を循環して

悟って星になる

そんなあいまいなイニシエーション

いらない

 

番組ゲストのカクバリズムの二人の大ファンだったっぽいから、同じカクバリズムキセルの曲も聴いてそう。歌詞から歌い方まで雰囲気がすげ〜似てる。

 

僕の歌詞の解釈は次の通りです。

 

誰も彼もヘブンとかコミュニケーションとかイニシエーションとかいう言葉に希望や優しさを見出している。天国に行けば幸せになるとか、人と会話をすれば楽しくなるとか、大人になればもっと自由になるとか、それらが救いであるかのように口にする。

それが救いであるのはなぜか。今が苦しいからだ。

体の内側がその熱で燃えてしまうほどに、良い感情も嫌な感情も巨大なエネルギーで湧き出してくる。逃げ出したくもなる、魔法で解決したくもなる、けれど満ち溢れる力になることもあるじゃないか。

内なる熱を失って水道のように冷たく同じ道を進むとき、人々も自分も哀しみに満ちている。

もし救いの言葉たちが、この熱から逃げ出してあるいは諦めて、燃え尽きて灰になって不感症の悟りの境地を目指すことを促しているのなら、自分は耳を貸さない。どうすればいいのかわからないけど、きっとこの内なる熱を外に打ち出して、殻を破って大きくなってみせる。

 

まあ歌詞の解釈は人それぞれだと思う(と言わせるレベルなのがすげ〜が)ので各々やってくれればいいんですが…。

 

僕が一番すごいと思うのは言葉の使い方だ。

詩ってまあ色々あると思うんですけど(それはそう)、大抵はなんか心を揺さぶる感じがする。複雑なクロスワードパズルを解いた時の快感に似ている。

 

僕は、良い詩は自分のもつ言葉のネットワーク(パロール)の再構築を迫ると考える。全く離れた場所にあった言葉と言葉が、いまや分けては考えることができないほど接近する。

言葉と言葉が知らない形でつながる瞬間は、子どもの小さな言い間違いにどきりとさせられる瞬間に似ている。いまググったら「何者だ!」を「誰者だ!」と言うとか、「『みつばち』って『うえきばち』の友達?」っていうのが出てきた。かわい〜!こういう時に、詩が何にでもなれることを実感する。

 

言葉には、概念を広げる使い方と狭める使い方がある。

ある時には、肉じゃがとか、おばあちゃんが作った夏野菜たっぷりカレーを食べるときの満ち足りた気分になる。またある時には、薄味のウィダーインゼリーを飲んでいるような物足りない気分になる。なぜか。

言葉は、それ単体で沢山のイメージをはらんでいる。太陽は、熱くて、赤くて、強くて、大きくて、怖くて、暖かくて、眩しい。わざわざ言及しなくたって、僕たちは勝手にそんなような太陽をイメージする。このイメージは、無限に広がっていく。一方、言葉がある使われ方をすると、イメージを狭め、指定さえする。

詩が心に響くのは、この勝手にまとわりつく言葉のイメージが、書き手によって巧みに誘導され、増幅され、あるいは消音され、結果として聴き手が思いもよらなかった概念を聴き手自身に発見させるからだ。下手な料理人ではこうはいかない。素材の味を生かせず、同じ味付けで誤魔化す。トマトは砂糖を振らなくても甘いのに。

 

では具体的に概念を広げる言葉の使い方とは何かというと、まあよく分からない。そもそも概念を広げることの効用は、広がった概念を用いて新たな接続を受け手自身が発見することにあるので、書き手自身がどうこうできるものではないような気がする。が、接続を発見しやすくする方法は間違いなくある。種自身が根を伸ばせるよう、畑をやわらかく耕すように。

 

似たイメージの言葉を連続する。

言葉と言葉がある意味において協力し、繋がり、蓄えられ、詩が編み物のように強度を持ち、膨らむ。言葉のネットワークにおいてスモールワールド現象が起きる。一見関係のない言葉と言葉の距離が小さくなる。

High Touchと太陽とジャンプ、太陽と燃やすと黄金、割れると体内(体を割らなければ見られない)、太陽と月と星、動脈と循環、水道と沈む。

 

反対のイメージと対比する。

対比は二項対立ではない。二項対立は、二項のどちらにも関わりを持たない立場からの評価だ。人間はあらゆる対立二項のどちらかに馴染んでいるのであり、好んでいるのであり、あるいは単に語順や声色その他に引っ張られている。現実の要素が理論的な対立を崩す。あらゆる二項において同等の対立などありえず、必ずどちらかにイメージの重心が寄る。極端に言えば、明るいイメージを好む人は、昼と夜という二項を「昼と昼でないもの」とみなす。どちらに重心があるかはあまり重要ではないと考えるが、便宜上これらを順に主項と補項と呼ぶならば、主項に対して補項が提示されることは、「主項ではないもの」すなわち「無数にある何か」への意識を顕在化させる作用を持つ。「〇〇ではないもの」なる無限のイメージを主項のすぐ隣に置き、思わぬイメージの連結を促す。ヒヤリとさせる。多様になる。

太陽と月、好きと嫌い、希望と哀しさ、美しい動脈(鮮やか・内にある)と黒い色をした水道(濁った・外にある)。

 

助詞のいたずらを。

助詞は、そのまわりの言葉を関係づける。「は」は、主部と術部のなんらかの関係を暗示している。「助詞のいたずらを。」と言って文を終えれば、助詞のその先の術部を想像する。補う。接続を試みる。

助詞によって性質は異なる。重みを変えることも、概念を広げるものも、狭めるものもある。

歌詞からの引用。

誰もがある人の言葉の中

頭に咲いた少しの希望と

 

誰もがある人の言葉の中

頭に咲いた少しの希望を

「希望と」と「希望を」は全く違う。前者は希望と並ぶ何かへの想像を掻き立て、後者は希望ではないものへのつかの間の空想旅行を経て希望そのものを再び照らし出す。土が耕されている。もはやこの希望は初めの「希望と」とは異なる。

形容詞もこの向きがある。「白い!太い!真っすぐ!」は、くりかえす形容詞によって、被修飾語への意識を強める。

 

結局。

伝えたい内容に向けて聴き手のイメージを狭めていく歌詞ではなく、聴き手自身に生まれてから今まで育んできた言葉のイメージを整理させながら伝えたい内容へと誘導する歌詞。これがマジですごい。ギターの技術もやばいし歌い方も自分の方法を確立していてやばい。それでいてこの曲を書いたのは中学生の時。はぁ〜バケモンだ。

 

稚内に、泊まると夜9時に集合かけられて宿泊者全員で松山千春の「大空と大地の中で」を歌わされる宿がある。そのあと酒が振舞われて、寝たい人から二階に上がって寝る。トイレが広い。二泊した。

強烈な経験だったから、寝るぞってときにたまに思い出す。寝ることと「大空と大地の中で」が切り離せない。最初のワンフレーズだけ歌って寝る。この前その状態になったので、内モンゴル人にボイスメッセージを送って寝た。

歌舞伎鑑賞教室「面白い」

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面白いと言うだけで面白いような気にさせられるなら世話はない。他にハマる言葉はなかったのか。歌舞伎鑑賞教室が面白いかどうかはさておき、何か気になるなって状態にさせるのがキャッチの役目だろう。好きの反対は無関心、嫌いってのは可能性がある。ブログで取り上げるあたり、かなり関心は持ってると言えるような気もするが。

 

乃木坂46ソート - 乃木坂46 データセンターをやったら、〇〇〇〇が最下位になった(このブログをみた本人やファンを傷つけるのは本意ではないので隠します!配慮がすごい!)。この結果は僕自身意外だったが、よくよく考えてみれば〇〇〇〇にさほど関心がないことに気づいた。無関心とは恐ろしいと思った出来事だった。

 

結局。酔ってる自分が好きで、酔わせてくれる人が好き、みたいな。

夢の中の僕が「僕もみんなも、相手の言葉を受け取って、それをどう料理できるかっていう自分の味付けに面白さを感じてますからね。素直に言葉を楽しめないんですよ、かわいそうですよね。」って言ってて(文脈略)、起きてうわって思って書き留めた。他の人は知らんけど、少なくとも見出しで遊ぶ僕じゃん。かわいそう。

 

松屋のラインからキムカル丼とネギ塩豚カルビ丼の50円引きクーポンが届きました〜 はい勝ち〜。素直に喜びましょう!と言っても、「素直に〇〇」という形式を文章中に再び引き出すことによる曖昧な効果を楽しんでいるのであって、50円引きクーポン自体を素直に喜んでいるわけではない。そう。僕は…素直に喜ぶことなど……。