わたしのみだし

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交際女性、男に別れ話すると

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20歳のころ休学して旅をした。「自分探しの旅ってやつ?」と訊かれることもあったが、そうだと答えるには手垢がついてむず痒い言葉だった。天邪鬼だから「自分以外探しの旅」と呼称していたと思う。

自分以外のものを見て聞いて、それらと自分との境界を見定めようとしたのだから、結局は自分探しということだ。フレームが切り取る写真の外側にも被写体は広がっている。僕はどこまで広がるだろう?と、そんなことを考えていた。御託はいい、いずれにせよ見て見ぬ振りをした大きな空洞は埋まらなかった。

好きなことをして選び取った今だと思われることが多い。「旅が好きだから旅をしているんだね」「鉄道が好きなんだね」「一人が好きなんだね」そんなことはない。流れ流されてここにいるだけだ。たまたま周りの人たちが素晴らしくて、鬼にも虎にもならずに生きてこれた。

休学を決めたのは建築学科の講義を受けはじめて半年のことだ。同じクラスの友だちが行くから、くらいの気持ちで選んだ学科で、特に建築への熱い思いがあるわけでもなかった。高校に入る時も大学に入る時も同じ学校から来た男は僕一人だったから、そのたび人間関係はふりだしに戻った。また一人になるのが怖かったのかもしれない。結局、建築への違和感が半年で襲って、休学になる。

このあたりのことははっきりと意識していたわけではなかった。流されて、どういうわけか休学することになったとしか言いようがない。しかしその頃の僕自身はこの休学を「選び取った今」であると信じようとして、「旅行したいから」という意味を割り当てたんだろう。その実、一年の期間のうち半分は実家で寝ていただけだ。

旅行中はすこしだけ写真を撮って文章を書いた。Facebookに投稿するといくらか反応があって気を良くしていた。チヤホヤされたい2歳児の欲求が満たされていく感覚。すごく甘い果実だ。しかしこの投稿もしばらくすると得られる快感が薄れたのかやめてしまい、だから僕はいまだにチリにいる。

当時付き合っていた人は、自分にかまってくれる都合のいい人間の代表だった。そんな感覚でいたんだ、休学中に別れることになったのも当然だろう。それからいくつか本を読んだ。「自分はみじめだ」という気を紛らわせるために、あわよくば助けてもらうために。そしてM・スコットペックの『愛と心理療法』という本に出会う。書名からして愛に悩める人に向けた本のにおいだ、しかしすぐに助けてくれる本ではなかった。

愛することは困難であるという論旨だ。困難だから、訓練する必要がある。愛の感情がある(=好きだ)からといって、愛していることにはならない。「自分のせいにする傾向」としての神経症と「他人のせいにする傾向」としての性格障害の手綱をとれ。厳しいが、自省して愛を実践するように促してくれる、正しく叱ってくれる本であった。僕は助けられようとしていたが、自分で自分を助けなければならなかった。

時は進んでついひと月前。5年ぶりの人に会った。現在のパートナーとの関係について悩んでいるようで、僕が(先述の女性と別れて一年くらいのころ、あるビルの屋上で)愛についての本を勧めていたことを思い出して、相談したいと連絡をくれた。深刻そうな文面だったので心配していたが、約束の日にはすでにある程度関係は修復していた。笑って楽しく飲んだ。この邂逅がきっかけになって、『愛と心理療法』との出会いと当時の気持ちを振り返ることになった。

フォード社が社員に休みを与えたのは、その方が効率よく働いてくれるからだった。現在の企業ではその上成長と呼ばれるニンジンをぶら下げて安く働かせることもある。愛していると言って自分に構ってもらおうとする僕も同じだ。あなたのためと言いつつ、結局は自分の利益を考えている。はびこる御為ごかしは悲しいが、さらに悲しいのは、この思考法が自分の深くに内面化されていると認めなければならないことだ。

自分に利するかという目でいると、他者は棚に並ぶ商品になる。比較してより良いモノを選ぼうとする。いま、自分は少なからずこのような目で人を見、人に見られている。個性をアピールしなければ、自分という商品の魅力を認めさせなければ、誰にも見向きされない。チヤホヤされない。

もちろん人間は商品ではない。この資本主義的な思考法を脱するために、「個性」なる語を捉えなおそう。これを「特定の個人の属性」というよりも、「人間は互いに異なるという種の性質」をあらわす言葉だと解するのが良いだろう。鉄は延性や展性があり、人間は個性がある。鉄は(幸いにも)個性がないので交換できるが、人間は替えがきかない。人間には個性があるんだ。

他者を愛するために、僕はどうすればよいだろう?わからないから書こうとしたし、わからないから書けなかった。今だって大した結びが思い浮かばない。でもここまでは書けた。これが現在地だ。