わたしのみだし

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今やすっかりシニアの社交場

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アクセントが「す、シ、社」にくるので口ずさむと心地いいです。「ので」とは言いつつも、なぜアクセントが「す、シ、社」にくると口ずさんだときに心地いいのかは知りません。究極的には「なぜ?」に解答はない。無知の知無知の知ってなんだ?

 

学科の同期が東急ハンズでやってるマニアフェスタに、マニアの一人として出展するらしい。卒業研究の延長でそんな声がかかったという。研究って、何も知らない人に見せたら全部マニアックなことだよなあ。彼しか知らない研究の魅力を存分に広めてほしい。時間があったら行ってみようかな。

 

「整理・管理されていないものや体験に対するマニア的視線」ってのがあるよな〜という話。息をすることを例にとる時、「整理・管理された」とは、息を吸うにあたってわざわざ人体の仕組みを意識させない人体組織の状態のことだ。マニア的視線とは、にもかかわらず人体や呼吸法について研究する人の目だ。「ものや体験」とは何かとか、「〜に対する」とは何かとかの説明は勘弁してほしい。

 

誰だったかが「世界が数学化するほど、数学は意識されなくなる」と予言した。なるほどその通り、おかげさまで僕は習った数学をほとんど忘れてしまった。

同じように「世界が整理・管理されるほど、マニア的視線は失われる」と言えないだろうか。数学の仕事のひとつはルールを簡潔に記述(整理)することだからだ。「ものや体験」が生産者によって十分に整理・管理されていれば、「どのように使うか」「どのような効用があるか」という、私と「ものや体験」との界面についてだけ知っていればいい。

 

ちなみにコンピュータの世界ではこの界面のことをAPIと呼ぶ。さまざまなアプリケーションが実際どのような仕組みで動くかは知らないし知る由も無いけど、とりあえず「このように使えばこのように動く」という仕様は決まっている。PUBGモバイルのアイコンをタップすればPUBGモバイルが開くし、射撃ボタンを押せば発砲される。エンジニアはなぜそのように動くか?が気になって仕方ないマニアと言える。

 

あるいは、だれかが整理しているのではなく、どんなに不思議なことも僕たち自身が自分の中で整理してしまうのか。洗濯機がどうやって回るのか全く知らなくてずっと覗き込んでいたことがあったが、そういえばいつのまにか気にしなくなった。僕の世界はどんどん整理されて、カチコチになっていくのか…などとどうでもいい哲学にはまり込んで勝手に悲観するわけではない。物事が整理されることで、また新しいことを見つけられるし、消費しきれないほどのコンテンツが次々生まれる現代からは整理されきったルーティンの中で暮らす未来は想像できない。

 

この話、別にオチがあるわけじゃないです。終わり。

 

冒頭で「『大学生の時の』学科の同期が〜」とは言えなかった。卒業しても大学生みたいな生活してるからな。今週末には大学の一室でボードゲームをやるし、本当に大学を卒業できているのかあやしい。少なくとも「大学生」は卒業してない。いつまでも若いつもりでも歳はとるし、あの部屋もいずれシニアの社交場になるんだろうな(老衰で死ぬ直前まで大学に忍び込んでやる)。